日本の競馬の歴史5

日本初の社団法人としての競馬主催団体・東京競馬会が1906年に設立されましたが、その理事には当時の日本では競馬界の最高峰とも言える国内外の人士が名を連ねました。また競馬運営を熟知したスタッフが集まり、レースの運営に当たったことから、東京競馬会がはじめて主催した競馬は、大成功のうちに幕を閉じました。
この東京競馬会の成功に続けと、日本各地の他の地方でも公認競馬を開催しようとする動きが起こりました。そのため東京競馬会と同じような形態で競馬を主催しようとする社団法人の設立申請が相次ぐ結果となりました。東京競馬会の一部の役員は社団法人設立の準備不足による混乱を危惧し、法人設立認可を慎重に行うように政府に進言しましたが、結果として政府は社団法人認可を乱発してしまいます。これを受けて翌1907年から1908年かけて、競馬施行を目的とする社団法人が日本各地に相次いで誕生します。
しかし、東京競馬会の成功を柳の下のドジョウとするなら、2匹目のドジョウはそうたくさんいません。一部の人たちが危惧したとおり、後発のそうした団体では競馬運営を熟知した者が不足し、競馬の開催と実施能力に明らかに欠けてしまっていました。また一部では極端に営利主義一直線に走るものも出て、結果トラブルが頻発しました。例えば的中馬券の配当金計算に不正な操作があったり、或いは八百長といった騒動が連日のように起こったりしました。元は紳士淑女、上流社会の人士たちを集めていた競馬は、こうしてあっという間にやくざ者や無頼漢が出入りする場所へと成り下がってしまいました。そのため世論からは競馬を排斥すべきという競馬排斥論が巻き起こり、競馬が世論の批判の矢面に立たされます。

 

当時の馬券の発売は、前述のように政府の黙許に拠っていたため、実際のところ法的根拠がなく、代わって各競馬倶楽部に政府の馬政官が派遣されて監督を行っていました。1908年に当時の司法大臣が馬政局に無断で兵庫・鳴尾競馬の馬券販売主任者を賭博容疑で検挙するという事件が起こりましたが、世論はこれを支持したため、競馬排斥論が勢いを増しう、各新聞が競馬撲滅論を書くに至りました。世論の押された形でその後馬券発行禁止の内閣令が発せられるに至りました。それは東京競馬会の認可より僅か2年の出来事でした。わずか2年で馬券発売は禁止の憂き目に遭ったのです。
現在でもそうですが、競馬主催者にとっては馬券の販売が第一の収入源です。馬券が発売できなくなったのでは、競馬界は死命を制されるといっても過言ではありません。当時こうして内閣令によって馬券の発売が禁止されたことで、公認競馬を主催する各団体は収入源を断たれて、競馬を開催することが極めて困難な状況に追い込まれてしまいました。しかしながらこれによって社会に競馬の必要性と存在意義が無くなったというわけではありません。当時の政府は、上記のように軍馬の品種改良が課題となっており、馬の生産の奨励や品種改良の成果を見る上でも競馬の開催を必要としていました。そのため、今では考えられない話ですが、当時の政府は馬券発売を伴わない競馬開催を推進することにしました。そのため政府は一旦競馬界の整頓に出ます。旧来の施行体を一旦すべて解散させて、新たに全国11の競馬倶楽部を競馬施行体とし定め、補助金を支出して競馬を開催させることにしました。このような補助金を基礎にして行われた競馬を補助金競馬と呼んでいます。政府はこうして馬券発売を伴わない競馬を推奨しましたが、馬券を販売しない競馬なんて、現在の皆さんには想像できるでしょうか?馬券のない競馬なんて、競馬ではないと思う人が多いでしょう。競馬の最大の楽しみがそのギャンブル性にあるわけですから、馬券を販売しないということはそのギャンブル性を否定することになります。ところが当時、実際には入場者勝ち馬を予想させ、その予想的中者に対して景品を付与するという形で賭けが行われるようになっていました。こうした競馬の形態を景品競馬と呼びました。今では耳慣れない言葉である景品競馬ですが、後に(旧)競馬法が成立し馬券発売が再開された際に公認競馬では行われなくなりました。ですが地方競馬や一部の団体が主催する競馬では引き続いて行われていました。

このあと日本の競馬界はさまざまな紆余曲折を辿ることになります。そしてそうした経緯を経てようやく、現在のように娯楽として幅広く認知され、競馬界が発展を極めるようになるのです。